風俗街『福原』の歴史と現在とこぼれ話

古くから日本の各地には「遊郭」「花街」と呼ばれる大人の男性の遊興の場があり、現在まで伝統が引き継がれている地域もあります。兵庫県神戸市にある一大ソープ街「福原」もまたそんな歴史をもつ地域です。江戸時代にはたくさんの芸姑を有する花街として、また明治以降には遊郭として多くの男性を魅了し続けてきました。赤線の廃止や、風営法改正による取締にも負けず、現代では「西日本最大のソープ街」として名を馳せているのです。

日本の遊郭や花街の類は、世界的にみてもめずらしい形態をしていて、経済の中心となり商業街から少し離れた場所に、”隔離”された状態で成り立つのです。世界の”風俗”といえば、そのほとんどが道端で客をひく「売春」になりますが、日本の場合には「政府公認」がほとんどなのです。「隔離エリア」といっても、外国のスラム街などとは色合いが異なり、治安がよく、それはそのエリアの「自治」によるものが多いようです。現在の福原もまた「特殊浴場協会」を組織し、ある意味「自治」をしています。

1970年代に現れた「トルコ風呂」が福原ソープ街の近代史としての起源となりますが、その道程は平坦ではありませんでした。もっともソープ業界を震撼させたのが「AIDS問題」であり、この風評被害による打撃は全国規模であり、そして福原も同様に客数と売上を減少させたのです。現在のソープランドでは「コンドームの使用」を基本的に義務付けていますが、それは、こAIDS問題打開のために始まったものなのです。

そしてもう一つ忘れられないのが、1995年に起きた「阪神淡路大震災」による被災です。福原は震源地にも近かったことから、周囲は焼け野原のように変貌してしまいました。しかし、ソープランドという業種は、大型のボイラーを使用するために安全基準が高く、建物も堅強で、生き残った店舗もかなりありました。

このときに、ソープランド協会は、家を失い避難所もまできない時期に、生き残った店舗のサービスルームを風呂として提供する決断をしました。商売の性質上、メディアで取り上げられることはありませんでしたが、この事は震災時に周辺に住まれていた人たちの間では美談として語られています。

2000年を超えた頃から力をつけてきた風俗業界の新勢力「ファッションヘルス」「ピンサロ」の台頭もまた、福原ソープ街にとっては痛手でした。このブームは10年以上も続き、その間に「ソープランドはなくなってしまうのではないか?」というほどに店舗数を減らしてしまったのです。

しかし、年月が経ち、ここ数年で福原は活気づいています。一時期は物珍しさと新鮮さでヘルスやピンサロが流行しましたが、今また「本物志向」に人々の関心が向けられ、洗練された福原のような大ソープ街が全国的に息を吹き返してきているのです。このときにサービスの質を維持して独自路線を貫き、流行に流されなかった福原のソープ業界の判断は正しかったといえるでしょう。

多くの自治体がそうであるように、福原もまたソープランドの新店舗出店を禁じられたエリアです。しかし、その店舗がもつ営業権利を受け継いで代替わりをし、なんとか店舗数の減少を最小限におさえています。最近では長年続く不況のために、就職難や借金で苦しむ女性、またブラック企業の被害者、劣悪な労働環境である保育士や介護士の転職先として、社会的な役割を果たしているのです。