ソープランドを始めとする日本の風俗業界には脈々と続く長い歴史があります。
ふだんは自分の欲望のためだけに風俗店を利用しているでしょうが、たまにはお世話になっている業界の歴史を知るのも面白いものです。
風俗業界には星の数ほどの人々が関わり、数え切れないほどの人間模様を繰り広げながら、途絶えることなく今なおその形態を残しているのです。
日本の近代風俗史を紐解いてみました。
●近代風俗とは?
「男が女をお金で買う」という商売は世界中に有史以前からあったようです。
日本にも「遊郭」が古くからあり、現代では大きく数を減らした「チョンの間」などがその流れだといえます。
しかし、チョンの間などは「売春」の色合いが強く、現代の主流となる性風俗とは一線を画します。
ここでは近代風俗を、戦後しばらく経って登場した「ストリップ劇場」以降の風俗店と規定しました。
●チョンの間の規制からストリップの登場
戦後GHQによる「公娼廃止例」によって日本各地に点在していた女郎屋がなくなりました。
しかし公認の売春地帯「赤線」は生き残り、それは1958年の「売春防止法」まで続きました。
近代化と経済発展が右肩上がりに進んでいた日本は好景気に湧き娯楽を求める人が増える中、1947年新宿にストリップ劇場の原型が登場しました。
●ソープランドの原型が登場
ここで早くも「ソープランド」が登場しますが、1951年「個室付き浴場」として開業された当時は性風俗ではありませんでした。
徐々に性的サービスを行うようになって、ある程度の型が決まり「トルコ風呂」として普及しはじめたのです。
それが、1958年に「売春防止法」が施行されたと同時に、女性を求める男性の矛先がトルコ風呂に集まったという経緯です。
トルコ風呂は一時期全国で1500店舗を超えていたそうですが、多くは当時の繁華街に出店されていました。
この時期に現代まで続く日本の性風俗業界の基盤ができたと考えられています。
●AIDSブームにのって現れた「ピンサロ」
トルコ風呂は、トルコ人留学生の厚生労働省への申し立てにより、現在の「ソープランド」へと名称変更したり、オリンピックなどの大きなイベント時には多少の規制がかかるなど、けっして平坦な道のりではありませんでしたが、それでも徐々に数を増やし続けました。
このあたりの事件はソープ業界にとっては、話題は大きくとも売上に影響するものでもなかったのです。
ソープ業界最大の危機は「AIDSブーム」が起きた時代です。
実際にはAIDSはインフルエンザなどと比べるとはるかに低い感染力であり、被害者数も数えるほどだったのですが、メディアによる報道方法も適切ではなく、いわゆる「風評被害」によりソープランドの客が激減したのです。
こういったことは日本ではよく起きることです。
数年前の「狂牛病」なども、話題の大きさに比べて実際に発症したひとなどほとんどいないのが真実なのです。
このAIDSブームの時期に登場したのが「ピンクサロン」です。
おさわり型キャバレーを原型とするこのピンサロは、「ボディタッチ」から「ハンドサービス」へと方向性を変え、突如として性風俗への変貌を遂げました。
価格も安かったことから、力の弱まったソープに変わって性風俗産業の主役になったのです。
●バブル期の風俗カンブリア紀
バブルの好景気には、まるでカンブリア紀のように多くの性風俗が現れては消えていきました。
ノーパン喫茶・愛人バンク・デートクラブなどが登場しては規制が敷かれて瞬時に消え去る・・・という運命にありました。
ファッションヘルスもこの頃に徐々に数を増やし始めた性風俗で、数少ない生き残り組です。
現在の60歳代の男性ならば、この時期の日本の”カオス”とも呼べる時代を懐かしむ人も多いはずです。
●出会い系サイトで証明された性風俗
「性風俗」は女性の敵であり、忌み嫌われていました。
しかし新たに登場した「出会い系サイト」により、そうも言っていられなくなったのです。
出会い系サイトがらみの事件事故の数は膨大で、社会問題となりました。
自分の子供がそれに関係する可能性も非常に高く、正直警察でも手に負えない状態だったのです。
この頃から日本人の性風俗に対する視線が柔らかくなったようです。
お客も風俗嬢も違法性はまったくなく、事件も起きないわけですから当然のことだといえるでしょう。
警察当局にしても、女性が出会い系サイトで援助交際をするよりは、きちんと届けの出された風俗店で働くほうがいいわけです。
現代の日本の性風俗は「ソープランド」「デリバリーヘルス」「ピンサロ」「ファッションヘルス」「エステ」などを主体に安定期に入っているといえます。
長い歴史を歩み続ける日本の性風俗の黄金期だと言っても過言ではないでしょう。